こじらせ系コミュニケーション

- 街で知り合いに出会ったらそっと隠れる。
- できたら1人でいたい。
- 好きなコミュニケーション手段はチャット。
そんなわたしの20代は、コミュニケーションについて試行錯誤することに注力した10年でした。
ことの発端はゼミの先生に「(グラフィック)デザイナーに必要なのはコミュニケーション力」だと言われたこと。
「人と関わらないでいい仕事がしたいな」と考えていたわたしは、目から星がとびました。それはそれは豪快に。
コミュニケーションが苦手だからといって、人は好き。いろんな考え方に触れるのも、違いを比べるのもおもしろい。生身ではないコミュニケーションを好んでいる。それだけのこと。
あるとき、人間関係をこじらせるコミュニケーションに目が向きました。
それは、「怒り」です。
何事もすぎると途端に伝わらなくなる。
なぜなら、一方的なコミュニケーションになってしまうから。
怒りは尤も(もっとも)たるもので、発している本人は伝えようと一生懸命ですが、相手には何も伝わりません。
「怒りは二次感情」という言葉、聞いたことありませんか?
怒りの前身は、悲しさや、傷ついたという感情なのだそうです。
悲しみは自分の中に雨を降らせ続けるようなもので、そのうち息苦しくなって、溺れてしまう。すると、自分という川から洪水のようにあふれて、牙をむいてしまうのでしょう。
それで、悲しさは消えた? 得たいものは戻ってきた?
「傷ついた」「悲しかった」「同意できない」
まずは、伝えたいことの本質だけ、率直に言葉にする。そして「どうして欲しいのか」を伝える。
察してほしい、いたたまれない気持ちを受けとめて欲しい。と思っているうちは、コミュニケーションはうまく行かないのですね。
もうひとつ、コミュニケーションがうまくいかないケースがあります。
それは「正義」の違いです。
お互いの正義が真逆に位置している場合、どこまでいっても平行線。
歩み寄ることができません。なぜなら、自分にとっての悪は、相手にとっての正義なのですから。
こればかりは、文化や信念、政治的思想などにも繋がることですので、「触らぬ神に祟りなし」ですね。
かろうじてすり合わせられると思われるケースが「ちょっとした文化」の違い。
これについては長くなりそうなので、機会があれば、別の日記で。